西島 胡桃 Kurumi Nishijima
幼少の頃
東京都八王子市生まれ
二人姉弟の姉として生まれる
父は、サラリーマン
母は、専業主婦
幼稚園生の頃は歌うこと・踊ること・ピアノを弾くことが大好きな子だった。
当時の習い事はキッズダンス。4歳から8歳まで続けた。
ピアノは習っていなかったが、ピアノを弾くことが大好きで、よく、お友達が弾いているのを真似していた。
家には小さなキーボードしかなかったため、幼稚園には、毎朝誰よりも早く行き、幼稚園の教室にあるアップライトピアノを弾いて遊んでいた。
それが本当に楽しかった。
そんな様子を見ていた周りのお母さんたちが
「くるみちゃん、ピアノ習ったら?」
と言ってくれた。
このことがきっかけで、6歳の頃、幼稚園卒園と同時に、カワイ音楽教室でピアノを習いはじめる。
とても優しい先生だった。
小学生の頃
カワイ音楽教室では、夏に発表会、冬にコンクールがあり、それにはほぼ毎年参加していた。
コンクールでは結果が出たり出なかったりと、特別上手な子ではなかったが、舞台に立って演奏することは嫌いではなかった。
家での練習は毎日やっていた。
そのためか、先生からはいつも、「よく練習してきてえらいね」と褒められた。
実は、「よく練習している」とはいっても、一週間のうちに宿題に出される曲は、簡単なものを一曲だけ。
その曲を一日一回弾くことが、私にとっての練習だった。
両親にはよく、「練習それだけでいいの?」と聞かれていたが、宿題に出されるのは一曲だけだし、一日一回弾けば次のレッスンまでにはできるようになるし、それで先生からは褒められるし、、
普段のレッスンでは音楽的なことも求められなかったので、練習とは、ただ指を動かせるようになれば良いものだと思っていた。
小3の夏休みに、八王子市から山梨県上野原市に引っ越し、転校。
ピアノを一旦辞めなければならなかったが、山梨でカワイ音楽教室を探し、小3の11月からピアノを再開。
教室には電車で通うようになる。
新しい先生もまた優しい先生だったが、数ヶ月で、先生の都合により違う先生に変わる。またまた優しい先生だった。
小学校の6年間、カワイ音楽教室で習い続けていたが、その間にお世話になった先生は全部で4人。
小3の引っ越し以外は、すべて先生の都合で変わることになったのだが、どの先生も若くて優しい女の先生だった。
そんな優しい先生たちに教わっていた小学生時代、教本はカワイのものを使っていて、一曲ずつのんびり進めていた。
ようやくブルグミュラーをはじめたのが4人目の先生のとき。私が小6の夏ごろだった。
ずっと簡単な楽譜ばかり見ていたので読譜力は身についておらず、小6にして、ブルグミュラーの譜読みさえ苦に感じていた。
その後も読譜ではかなり苦労した。
学校では、小学校高学年になると、合唱伴奏で活躍する場面もあった。
歌うことも好きだったため、学校からもらう歌の曲集や新しい合唱曲などは、端からすべて、どんな曲だろう?と、自分で音を取りながら歌ってみた。
中学生の頃
中学校に入学後は吹奏楽部に入った。担当楽器はクラリネット。
吹奏楽は、ひとりで演奏するピアノとはまた違った楽しさがあり、多くの感動も味わった。
中学時代は友人関係で悩むこともあったが、部活は楽しかった。
ピアノも変わらず続けていて、カワイの発表会やコンクールには参加していた。
学校での合唱伴奏を任されることも多く、それもまた楽しかった。合唱委員会の委員長も務めた。
中学卒業後は、普通科の県立高校に行き、吹奏楽を続け、ピアノも続け・・・などと思っていたが、、
中3の6月ごろ、近くに私立の音楽コースのある高校があると知った。
「やっぱりピアノを頑張りたい」という思いがあり、そちらの高校を目指すことに。
高校には無事合格。
その頃から少しずつ、音大も視野に入れはじめ、音大受験に対応している先生を探すことに。
運命の出会い
そこで出会えたのが、松本裕子先生。
高校入学前の3月、初めて体験レッスンを受けたときの感動は今でも忘れない。
身体の使い方のアプローチが本当に素晴らしく、それまで肩が上がって力が入っていた奏法が改善された。
徐々にではあるが、脱力方法を身につけられ、楽に演奏ができるように。
とても優しい先生である上に、的確なアドバイスをいただけて、さまざまな方向からアプローチがあり、毎回のレッスンが目から鱗。
自身でも上達を感じられ、レッスンを受けるってこんなに楽しいんだ!もっと早くこの先生に出会いたかった、、と思った。
高校時代
八王子高等学校の芸術コースに入学。
これまではピアノの練習時間が、長くても一日1~2時間ほどだった。
松本裕子先生から、「時間ばかりが大切なわけではないけれど、音大を目指すには、一日8時間練習するって言われているのよ」と言われ、衝撃を受ける。
そんなことも知らなかった。
高校では1学期ごとに1回、実技試験があった。高1最初の実技試験では、順位が、1クラス24人中、下から4番目。
とても音大なんて・・・という実技レベルだった。
しかし、恩師の素晴らしい指導により徐々に演奏レベルが上がり、高2最初の実技試験では審査してくださった先生から「感動した」と言ってもらえた。
ついに順位もクラスの中で1位に!
コンクールでも、これまでなかなか次のステージに進めることはなかったが、高3で初めてピティナのコンクールを受け、F級で本選に進出。
しかし、良いことばかりでもなく、、
滑り止めのつもりで受けた大学に落ちてしまう。
落ちるということが、それまでの人生で初めての経験だったため、かなり落ち込んだ。
しかしその後は気持ちも立て直し、本命の東京音大に合格。
憧れの音大へ入学するも…
東京音楽大学のピアノ科に入学し、初めて男性の先生に師事。
基礎中の基礎である音の出し方から教わることに。
男性の先生の、力強い音の出し方をお手本にするようになり、高校時代に身につけた脱力がうまくできず葛藤があった。
他には、レッスン中、
「あなたはどう表現したいのか?」
「どう感じるのか?」
と聞かれることが多く、自分には特に強い思いがないことに気づき、かなり悩む。
母親との関係
実は私には悲しい幼少期があった。
母は子育てで、深く干渉してくることはなく、その距離感は心地よかった。
ただ、ひとつ厄介なことが、、
それは、注意をしていて、だんだんヒートアップしてしまう性格。
私が何か間違ったことをすれば、怒鳴られ、殴られ、蹴られ、髪の毛を引っ張られ、、
こんなことは日常茶飯事。
「バーカ」
「ふざけんじゃねぇよ」
「お前の顔なんか二度と見たくねぇ」
なんて言葉もよく言われた。
当時の母にとってはしつけのつもりであったのだと思うが、私にとっては恐怖でしかなかった。
家にいればいつでも怒られる。
そのため子どもの頃は、夏休みや冬休みが大嫌いだった。
学校の方が居心地がよかったため、「早く家に帰りたい」という友達のことも理解できなかった。
小学校高学年にもなれば、こんなの虐待だ!と母を恨む感情も募ったが、とにかく怖かったので、反抗はできず、、
母が怒っていない、普通の状態のときであっても、私にとってはどんなタイミングで怒られるかがわからなかったので、
これを言ったら怒られるんじゃないか、、
これをしたら怒られるんじゃないか、、
などといつもビクビクしていた。
こんなことがあり、私は自分の言いたいことや欲求を話さない子に育った。
親から「お前はどうしたいんだ?」と聞かれても「なんでもいい」「わからない」などと答えていた。
周りから自分の意見を求められるようなことがあれば、なんて答えたらいいんだろう、、と、自分の意思よりも、「どう答えるのが正しいのか」という考えが先にきた。
自分の表現ができるようになった!
そんなことがあったからだろう。
なかなか自分が出せない。
大学のピアノレッスンでは、
「あなたはどのように表現したいのか?」と問われるようになる。
音楽表現をするにあたって、自分が感じていることや自分の意思を表に出すことが必要になってきた。
模索しながらもだんだんと自分なりに、感じること・表現したいことを考えるようになる。
そして、実際にピアノを通して表現をしてみる。
すると、少しずつ、「自分を表現することが楽しい」と感じられるようになり、喜びの感情も湧いてきた。
自分でも、音楽表現が豊かになってきたと感じらるように。
技術的なことについては、音の出し方も良くなり、先生からも良い音だと認めてもらえるようになった。
大学のはじめ頃はコンクールやオーディションでうまくいかず、悩んでばかりだったが、大学2年の後半頃から少しずつ結果が出せるように。
コンクールでは全国大会に進めるまでになった。
これまでの努力がやっと報われたと感じられる瞬間だった。
大学2年~3年の時は、ピアノの他に、憧れだった弦楽器に挑戦。
オーケストラの中でバイオリンを弾く経験をした。
大学3年~4年の時は、ピアノデュオにも力を入れ、成績上位者によるコンサートに出演。
音楽漬け、練習漬けの日々を過ごした大学時代だった。
大学卒業後~現在
そんな音楽にのめり込んでいた大学時代も終わり、いざ卒業。
就職活動もしなかったため、卒業後のことは何も決まっていなかった。
でも、音楽から離れることは考えられず、憧れでもあった自宅でのピアノ教室を開こうと、生徒募集を始める。
少しずつではあるが、幼児さん・小学生さんを中心にお問い合わせをいただくように。
卒業後1年間は、自宅でのピアノ教室と並行して、高校時代のフルートの友人とデュオを組み演奏活動をしたり、カフェでのBGM演奏も経験したりした。
社会人2年目になる頃、学童保育所の先生から声をかけられ、学童保育所の支援員としても働きはじめた。
音楽とは全く関係のない仕事であったが、子どもとの関わりについてはとても勉強になった。
社会人3年目になると、市内の合唱団から声をかけられ、合唱団のピアニストをつとめる。
また、合唱指導もするように。
この時期、小学校の音楽の先生も経験した。
実は、大学時代に教員免許を取得したのだが、教育実習が大変すぎて(受け持つ授業数が多く←これは本当にありがたいことなのだが…授業準備がギリギリで、睡眠時間も取れなかった)、他にも、人前で喋ることが苦手・積極的になれない性格もあり、将来学校の先生になることは絶対にない!と思っていたのだが、、
人生なにが起こるかわからない。
社会人4・5年目は、自宅でのピアノレッスン、合唱団ピアニスト、学童保育所の支援員と、仕事漬けの毎日を送った。
大変ではあったが、様々なことを学べる環境にいられた時間は、私にとって貴重な経験となった。
社会人6年目は、学童保育所を退職。自宅ピアノ教室、合唱団ピアニスト(5団体)の活動がメインに。
社会人7年目、自宅ピアノ教室主宰、合唱団ピアニストの他、メロディーア音楽教室の講師として勤務開始。
社会人8年目、自宅ピアノ教室主宰、合唱団ピアニスト、メロディーア音楽教室講師の他、甲斐清和高等学校音楽科のピアノ非常勤講師としても務めはじめる。
音大を目指す生徒たちへのピアノ指導。自分の活動の幅も広がり、ありがたいご縁に感謝の気持ちでいっぱいだ。
社会人9年目、自宅ピアノ教室主宰、合唱団ピアニスト、メロディーア音楽教室講師、甲斐清和高等学校音楽科のピアノ非常勤講師、伴奏ピアニストとして活動。
社会人10年目(2024年4月~)の現在は、自宅ピアノ教室主宰、合唱団ピアニスト、メロディーア音楽教室講師、甲斐清和高等学校音楽科のピアノ非常勤講師、伴奏ピアニストに加え、BGM演奏も行う。
プライベートでは、、
社会人になってからの数年間、遅れすぎてやってきた私の反抗期?により、母とバチバチすることもあった・・笑
昔、鬼のように厳しく怖かった母。当時は母の圧力により抑えられていた私の感情が、大人になって表に出てきたという感じだろうか・・
やっと今になって、私も、母が私のことを産んでくれた年齢を超えて、子育てがどれだけ苦労するものか想像できるようになった。
母にとって初めての子育て。右も左もわからず、多くのストレスもあったことだろう。
それでも、私が大人へと成長するまで見守ってくれたことに感謝している。
今を生きているって、尊いこと、素晴らしいこと。。
レッスンへの思い
私は幼少から現在までずっと音楽に触れてきた。
私がずっと音楽を続けてきたのは、音楽が楽しい!と思えたからである。
もちろん、つらいな…と感じることもたくさんあった。
コンクールに向けた練習…
試験に向けた練習…
自分が苦手だと感じる部分の練習をするのは苦しくなったり厳しいと感じたりすることも。
それでもやっぱり最後に待っているのは、喜びであり、楽しさであり、感動なのである。
私はこれまで何度も音楽に助けられてきた。
私がこれまで譜読みに苦労した経験から、「どのようにすれば、譜読みが苦手…を克服できるか」を研究。現在、独自のメソッドにより、生徒たちには楽しく読譜力を身につけてもらうことに成功。
また、生徒の「弾きたい!」という主体性を大切にし、ただ楽譜が読めるだけではなく、その一歩先の自己表現まで大切にするレッスンが好評。
自身の過去の体験から、ネガティブでマイナス思考・自己肯定感の低かった私であるが、2018年よりメンタルケアをはじめ、少しずつ幸せ体質になれるように。
このことを活かし、レッスンでは「自己肯定感の高い子」を育てることも目標としている。
一番の願いは、生徒にピアノ大好き、音楽が大好きと感じてもらえるようになること。
そして、音楽によって、生徒の人生が豊かになること。
教えることは学ぶことでもある。
私も生徒と一緒に成長していきたい。
《経歴》
八王子高等学校芸術コース(音楽専攻)を経て、東京音楽大学器楽専攻(ピアノ科)を卒業。
■2010年、ピティナ・ピアノコンペティションF級地区本選入選。
■2012年、オーディション合格者による第37回ピアノ専攻学内演奏会に出演。
■2013年、第26回コンサート形式オーディションにおいて、奨励賞、ミューズ賞、カテゴリー優良賞を受賞。ジョイントリサイタル「大樹へ」に出演。
■2014年、第24回日本クラシック音楽コンクール全国大会入選。
■2015年、第28回コンサート形式オーディションにおいて、カテゴリー優良賞を受賞。
■2017年、第30回同オーディションにおいて、カテゴリー優良賞を受賞。
中学校教諭一種免許状、高等学校教諭一種免許状取得。
一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)指導会員。
大学卒業と同時にフルートとピアノのデュオ“Parfum(パルファン)”を結成し、1年間活動。2度の自主企画コンサートを開催し、好評を博す。
現在ピアノ講師の他、ソロ、アンサンブル等の演奏活動、合唱団ピアニストなど幅広い活動を行う。
これまでにピアノを松本裕子、村上隆、米津真浩、森山あす香の各氏に、ピアノデュオを石岡千弘氏に師事。